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第1話 死ぬには安すぎる夜

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-24 18:03:51

灰戸港の高架道路を、最後の大型トラックが低い唸りを残して走り去った。鵜飼原継真は配送センター脇の端末へ退勤時刻を打ち込み、凝り固まった肩を回した。午前一時を少し過ぎている。夜勤を終えた身体には、もう帰って風呂へ入り眠る以外の予定はなかった。ところが社員通用口へ向かったところで、背後から「鵜飼原」と低く呼び止められた。

振り返ると、下請け会社の主任が黒い鞄を片手に立っていた。普段なら現場の作業員へ直接話しかけることなどほとんどない男で、襟元まできっちり締めた白いシャツにも、夜勤明けの倉庫には似つかわしくない清潔さが残っている。主任は挨拶もせず鞄を差し出したが、継真は受け取らなかった。革製の鞄には封印具が通され、黒い樹脂札まで取り付けられている。物流会社で働いていれば、開封防止ではなく、開けた人間を特定するための封印だと分かった。

「これ、ホテル・アルディスまで持っていけ。二時までだ」

主任は腕時計を確認しながら言った。継真が鞄ではなく相手の顔を見ると、男の視線がほんのわずかに横へ逃げる。その一瞬だけで、残業を頼んでいる人間の態度ではないことがはっきりした。

「配送票は」

「ない。俺の仕事を手伝うだけだ」

「受取人は?」

「着けば分かる。中身を見るな。途中でどこにも寄るな。誰に声をかけられても渡すな」

主任は最後に「余計なことは考えるな」と付け足した。考えるなと言われるほど、考えない理由がなくなる。継真は鞄へ視線を落とした。中身までは読めなくても、普通の会社の荷物でないことだけは確かだった。

「俺、もう勤怠切ってますけど」

「手当はつける」

「そういう話じゃなくて、社用の配送なら記録を――」

「鵜飼原」

主任の声が一段低くなった。周囲では残っていた作業員たちがパレットを片づけていたが、誰もこちらを見ない。正確には、一度だけ見てから全員が視線を外した。継真はそこで言葉を切った。この会社では、ときどき伝票のない荷物が動く。冥堂会の名を直接聞いたことはないが、その傘下と噂される警備会社や運送会社の車両が夜中に裏口へ入ってくることは珍しくなかった。そして、その仕事を拒んだ契約社員が翌月には配置表から消えていることも、一度や二度ではなかった。

高校を出てから一年、継真は昼の集金代行と夜の物流倉庫を掛け持ちして生活していた。会社へ逆らって職を失えば困るのは自分で、嫌だと思うことと断れることは同じではない。数秒黙ったあと、黒い鞄の持ち手を握った。

「車は?」

「用意してある」

主任の口元がわずかに緩んだ。その安堵を見た瞬間、継真の胸の奥に冷たいものが沈んだ。仕事を引き受けてもらって安心したというより、予定通りに人間を所定の位置へ置けた者の顔だった。

建物の裏へ回ると、灰色のワンボックス車が停まっていた。運転席には見覚えの薄い中年男がおり、後部座席には同じ会社の社員が二人座っている。どちらも現場で数度顔を合わせた程度で、継真と私的に話したことはない。主任は自分では乗らず、窓越しに「二時までに届けろ」と念を押した。継真が後部座席へ乗り込むと、社員の一人が鞄を膝の上へ置くよう指で示し、もう一人はスマートフォンばかり眺めていた。

車が動き出してから、誰もまともな会話をしなかった。煙草の残り香がこもる車内から、継真は窓の外を見ていた。ホテル・アルディスへ行くなら港湾道路から北へ抜けるのが最短だが、運転手は二つ目の交差点で右折し、反対方向の倉庫街へ入った。

「道、違いませんか」

スマートフォンを見ていた社員は顔も上げず、「工事してる」と答えた。継真はそれ以上問い返さず、男の横顔と運転席のミラーを順に見た。運転手は一度だけこちらを見て、すぐ視線を逸らした。

嘘だった。今夜、センターへ入ってきた配送車の運行表では、その道路を通った車両が何台もあった。事故や工事で封鎖されていれば、運行管理から全体へ通知が回っているはずだった。

倉庫街へ入るほど街灯は減った。継真は鞄を抱え直しながら、ここまでの指示を思い返す。受取人の名前さえ知らされていないのに、自分だけが責任を持って運べと言われた。何かあれば責任を押しつける人間を一人作るつもりだったのだと考えれば、不自然さは綺麗につながった。

後部座席の男が不意に身を起こし、「止めろ」と言った。もう一人も同時にスマートフォンを伏せ、ドアへ手をかける。二人の動きには相談する必要すらないほどの段取りがあった。

ワンボックス車が急に減速し、古い冷蔵倉庫の脇で停まった。社員二人がほとんど同時にシートベルトを外し、「ちょっと確認してくる」とだけ言って外へ出る。継真は追って降りなかった。二人は建物の角へ向かうふりをしながら、数メートル先で足を速めている。確認する相手も場所もないまま、そのまま暗がりへ消えた。

「……おい」

運転手へ声をかけた瞬間、右側から白いライトが差し込んだ。別の車が倉庫の陰から現れ、ワンボックスの進路を斜めに塞ぐように停まる。ドアが開き、黒っぽい上着を着た男が三人降りてきた。運転手が「あんたら、早すぎ――」と言いかけたところで、先頭の男が窓を開けるよう手で示した。次の瞬間には運転席の扉が外から開かれ、鈍い音とともに運転手の身体がハンドルへ押しつけられた。

継真は反対側のドアを開け、黒い鞄を掴んで走った。背後で「鵜飼原だ」「鞄を持ってる」という声が飛ぶ。名前を知られている事実に背筋が粟立ったが、立ち止まらず倉庫の間の狭い通路へ身体を滑り込ませた。

息がすぐに上がった。夜勤明けの身体は重く、肺へ吸い込む冷気が喉を刺す。それでも頭だけは妙に冷えていた。男たちは「こいつ」ではなく「鵜飼原」と呼んだ。現場で偶然見つかった人間ではなく、最初から顔と名前を渡されている。しかも「鞄を持ってる」と確認した。主任か、先に降りた社員か、あるいはもっと上の誰かが、自分の情報と荷物の移動時刻を相手へ流していたことになる。

背後から足音が二つ、少し離れてもう一つ聞こえる。全員で追ってはいない。鞄を回収する役と、自分を追う役に分かれたのだろう。継真は角を曲がり、錆びたフェンスの脇を抜けたところで、あえて鞄を身体の後ろへ隠すように持ち替えた。追いついてきた男の視線が、一度自分の顔を通り越して右手へ落ちる。その小さな動きで確信した。目的の中心は自分ではない。少なくとも、鞄を壊してまで殺したいわけではなかった。

「待て。話せるだろ」

継真は息を整えながら言った。返事の代わりに、男は距離を詰めてきた。三十代半ばほどで、黒いブルゾンの下に作業着を着ている。暴力団員らしい派手さはなく、手袋までしていた。継真は相手の靴底が乾いていることに気づいた。海沿いの外から来たなら湿っているはずなのに、泥も水滴もない。かなり前から倉庫の中か車内で待っていたのだ。

「鞄を置け」

「置いたら俺は帰れるのか」

「いいから置け」

「答えになってない」

男の眉がわずかに動いた。継真は数歩ずつ後ろへ下がりながら、逃げ道を探した。左は閉まったシャッター、右は金網、背後は古い倉庫の壁で行き止まりに近い。誘導されたのかもしれないと思ったときには遅かった。別方向から回り込んだ男が現れ、退路を塞いだ。

最初の一撃は頬骨の下へ入った。視界が白く弾け、身体が壁へぶつかる。手から鞄を離さないよう反射的に抱え込んだせいで、二発目は腹へまともに受けた。肺から空気が抜け、膝が崩れかける。口の中に鉄臭い味が広がり、舌先で触れると頬の内側が切れていた。

「面倒かけんなよ。最初から渡せば楽だったのに」

男が吐き捨てる。継真は壁へ手をつきながら顔を上げた。痛みで焦点が揺れていても、相手の言葉だけは耳に残った。最初から。つまりここへ連れてこられることも、襲われることも、すでに決まっていた。ホテルへ届けるという話そのものが嘘だった可能性さえある。

「主任に……いくら払った」

問いかけると、男は一瞬だけ黙った。その沈黙だけで十分だった。継真は唇の血を手の甲で拭った。会社で弱い立場にいる十九歳なら、消えても困らないと思われたのだろう。荷物を奪えば責任を押しつけ、死ねば口も塞がる。都合のいい捨て駒だった。

「賢いな、お前。だから余計なこと考えずに死んどけ」

後ろへ回っていた男が上着の内側へ手を入れた。街灯から外れた場所でも、取り出された金属が鈍く光ったのが見える。銃なのか、別の武器なのかを確かめる余裕はなかった。継真は鞄を盾にできる位置へ引き上げたが、男たちの顔色が変わる。やはり中身を傷つけたくない。その一点だけは読み違えていなかった。

「それ下ろせ!」

怒鳴り声と同時に、一人が腕を掴みに来た。継真は壁際へ身体を寄せ、鞄を奪われまいと肩へ力を入れる。まともに殴り合えば勝てるはずがない。逃げ道もない。それでも、相手が鞄を必要としている間だけは、自分と荷物を完全には切り離せない。その数秒で何ができるかを考えようとした瞬間、乾いた破裂音が倉庫の壁を打った。

継真を掴んでいた男の腕から力が抜けた。何が起きたのか理解するより先に、その身体が横へ崩れる。残った男たちが振り返り、倉庫の暗がりへ視線を向けた。遠くでコンテナを吊り上げる機械音が鳴っているのに、その一角だけ空気が薄くなったような静けさが落ちる。

「すみません、そこ動かないでもらえますか」

女の声だった。しかも妙に明るく、切迫した気配がまるでない。その場にいる誰より状況を理解している者だけが出せる落ち着きだった。

「あなたの後ろの人を狙ってますので」

継真は反射的に動きを止めた。暗がりから現れたのは、黒いセーラー服の上に薄手のパーカーを羽織った少女だった。腰近くまでありそうな黒髪は邪魔にならないようまとめられ、街灯を受けた瞳だけが琥珀色に見える。高校生にしか見えない細い身体の右手に、場違いなほど自然に拳銃が収まっていた。

「誰だ、お前!」

男が怒鳴りながら武器を向ける。少女は答えず、ほんの少し首を傾けた。次の銃声はほとんど間を置かずに響き、男の手から武器が弾かれる。そのまま距離を詰める動きには迷いがなく、別の男が腕を振り上げるより先に懐へ入り、体勢を崩して床へ落とした。小柄な身体からは想像できないほど効率的で、力任せに殴っているのではない。相手が立てなくなる場所と順序を最初から知っているようだった。

継真は壁際に立ったまま、目の前の光景へ頭が追いつかなかった。助けが来たと喜ぶには少女の動きが異常すぎる。背後から掴みかかる男を振り向きもせず崩し、落ちた武器を蹴り飛ばしても眉一つ動かさない。それなのに「危ないですよ」と告げる声だけは、同級生へ注意するように柔らかかった。

最後に残った男が逃げようとした。少女は追いすがり、数歩で距離を詰めると足を払って転倒させた。男が呻きながら這おうとするのを見下ろし、銃口を向けかける。その瞬間だけ、継真の喉が動いた。

「待て」

自分でもなぜ止めたのか分からなかった。少女は引き金へ指を置いたまま振り返り、初めて継真の声を認識したように目を瞬かせる。それから「はい」と素直に返事をし、何事もなかったように銃口を下げた。

男たちが動けなくなると、倉庫の隙間には再び港の遠い騒音だけが戻ってきた。継真は壁から背を離したものの、足の裏にうまく力が入らない。殴られた頬と腹が遅れて熱を持ち、口の中にはまだ血の味が残っている。黒い鞄を抱えたまま少女を見れば、彼女のパーカーの袖口にも小さな黒い汚れがついていた。それが何なのか確かめる気にはなれなかった。

少女は倒れた男たちにはもう興味を失ったらしく、銃を下げたままこちらへ歩いてくる。数メートル手前で止まり、最初に鞄ではなく継真の顔を見た。その視線があまりに真っ直ぐだったので、継真は無意識に眉を寄せた。

「……何だ」

返事がない。少女はまばたきもせず、継真の目、頬、口元へ順番に視線を動かし、それからまた目へ戻した。敵意は感じないが、銃を持った人間に無言で観察される状況を安心とも呼べない。継真が一歩距離を取ろうとしたところで、少女が突然、自分の胸元へ左手を当てた。

「変です」

「は?」

「胸が苦しいです」

さっきまで複数の男を相手に平然としていた顔が、そこで初めて真剣に曇った。少女は自分の胸骨の辺りを押さえ、ゆっくり息を吸ってから吐く。さらにもう一度呼吸し、首を傾げた。

「息もしづらいです。撃たれてないのに」

継真は反射的に彼女の身体へ視線を走らせた。出血は見えない。だが服の下まで無傷とは限らず、銃撃の最中に何か受けていた可能性もある。助けられた恩を考えるより先に、この状況で救急車を呼べるのかという現実的な問題が浮かぶ。

「どこか当たったんじゃないのか。痛い場所は」

「ここです」

少女は胸元を押さえたまま答え、今度は継真の顔を見つめた。その瞬間、なぜか呼吸がさらに浅くなったらしい。目を丸くし、自分の身体と継真を交互に見比べる。ひどく重大な謎へぶつかったような表情で数秒考え込んだあと、何かに気づいたように唇が開いた。

「もしかして」

声が弾んだ。継真は嫌な予感だけを覚えた。少女の琥珀色の瞳には、さっきまでの困惑とは正反対の光が浮かんでいた。

「これが恋!? 恋なんですね!?」

少女の顔が一気に明るくなった。胸を押さえて苦しそうにしていた人間と同一人物とは思えないほど嬉しそうに笑い、銃を持ったまま一歩こちらへ近づいてくる。継真は思わず同じだけ後ろへ下がり、背中を再び冷たい倉庫の壁へぶつけた。

足元では、自分を殺そうとしていた男たちが倒れている。少し離れた場所には襲われた運転手の車があり、黒い鞄は今なお自分の腕の中にある。会社に売られたことも、何者かに狙われていることも、何一つ解決していない。それなのに目の前の少女は、そんな全部を置き去りにする勢いで、初めて覚えた言葉の答えを見つけた子どものように笑っていた。

継真はそこでようやく理解した。今夜、自分を襲った男たちの目的はまだ推測できる。鞄が欲しい。口を塞ぎたい。金を受け取った。どれほど理不尽でも、人間の欲と損得の範囲には収まっている。だが、この少女だけは違った。銃を握ったまま「恋なんですね」と喜ぶ彼女が次に何をするのか、継真には一つも予測できなかった。

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